障害とアート研究会 第1回:2009年7月19日(日)

「『差異』と『共同』、その越境?マイノリマジョリテ・トラベルの活動からみるエイブル・アートの意義」

話題提供者:長津結一郎(東京藝術大学大学院音楽研究科 音楽文化学専攻 芸術環境創造分野修士課程)

「声が創出する共同性?ベルギーの芸術団体クレアムの『コーラス』の舞台から」

話題提供者:田中みわ子(筑波大学大学院人文社会科学研究科 現代文化・公共政策専攻 文化交流論分野所属)

「描画的他者?精神障害者や自閉症を対象とした絵画活動実践から?」

話題提供者:梅津正史(美術博士、精神保健福祉士)
コメンテーター:坂倉杏介(慶應義塾大学教養研究センター講師、三田の家LLP代表)
会場:芝の家(東京)
主催:財団法人たんぽぽの家、芝の家
共催:アートミーツケア学会、エイブル・アート・ジャパン
協力:慶應義塾大学教養研究センター


東京でのはじめての開催となりましたが、東京だけではなく静岡や長野、山形など遠方からの参加もふくめ50人もの方にご参加いただき、充実した会となりました。また、今回は日曜日ということもあり、14:00~17:00の3時間をかけ、3人の方に話題提供をしていただきました。また、3人の発表後に、慶応大学の坂倉先生も交え、1時間ほどディスカッションの時間を設けました。

最初の発表者は、東京藝術大学大学院生の長津結一郎さん。「『差異』と『共同』、その越境-マイノリマジョリテ・トラベルの活動からみるエイブル・アートの意義」と題してお話しいただきました。「マイノリマジョリテ・トラベル」(以下、マイマジョ)は、エイブル・アート・ジャパンと明治安田生命が共同で行っている舞台芸術のプロジェクト「エイブルアート・オンステージ」の第二期支援先として活動を行ったグループです。
彼らは、「エイブル・アート」における「障害」という定義こそが問題ではないのか?という疑問を投げかけ、「社会におけるすべての枠組みの相対性を示唆しようとするプロジェクト」を実施しました。

そのプロジェクトの概略を映像を交え、紹介された後、長津さんから「差異派」という観点が提示されました。「おもに障害のある人が、自分自身にしか持ち得ないものに目覚めて、それを出発点として活動する。」マイマジョはそのような「差異派」の流れに沿って存在している、のではないか。マイマジョの、抽象度が高く、メッセージ性も一様でなく、役者それぞれの違った想いがさまざまに渦巻く舞台。それが観客に「毒」を与える。しかし、それこそが、顕在化すべき「自身の意味」ではないか、と主張されていました。
また、「共同性」という観点も提示され、マイマジョにおいては「差異派」「共同性」という一見異質な2つの概念が共存していたこと、「援助者/被援助者という関係に新たな共生の視座を提示し、障害者の表現に内包される『毒』を芸術的手法を用いて社会に示していくことが、エイブル・アートの本質である」ということが指摘されました。

次の発表者は、筑波大学大学院生の田中みわ子さん。タイトルは「声が創出する共同性-ベルギーの芸術団体クレアムの『コーラス』の舞台から」。ベルギーの知的障害者による芸術団体クレアムの活動のなかから「コーラス」というプロジェクトを取り上げ、身体の表現のありようと、それがどのような共同性を生み出しているのかを明らかにしたい、という思いから、研究をされているそうです。

まず、クレアムおよび「コーラス」について簡単にご紹介いただきました。「コーラス」はクレアムの知的障害をもつ5人のパフォーマーによる、45分間の舞台作品。その3つの特徴は母音、楽譜、反復だそうです。なかでも「母音」はこの作品において大きな意味を持っています。パフォーマーから発せられる母音の連なりは、観客がそこに意味を見出すことを拒否する。しかし同時に、母音はわれわれもまた言語の違いを超えて身体に内包しているものであり、了解可能なものである、という田中さんの主張は興味深いものでした。また、アーティストであり、プロジェクトのファシリテーターである、アニマトゥールと、パフォーマーとの間には、「共犯性」と「共同性」が見出せる、という指摘は、長津さんの発表とも関連しているように思いました。

最後の発表者は、精神保健福祉士として、精神科クリニックに併設されているデイケアに勤務されている梅津正史さん。「描画的他者-精神障害者や自閉症を対象とした絵画活動実践から」と題し、これまでに行ってきた実践をとおし、考察されたことを中心にお話いただきました。
描画は『他なるもの』との出会いによって、思考・論理を超えた表現になるのではないか、という考えから、描画のなかにある「他なるもの」に目をむけるようになったそうです。今回の発表では、実際に行ってきた活動と、「他なるもの」に出会うことを目的として開発されたプログラムについて詳しくご紹介いただきました。

梅津さんは、プログラムを考える際には、参加者が「自己を意識せずに描き進めることができること」を重視しているそうです。思いがけず描いてしまった線や色。「こう表現しよう」という意図とは別にもたらされてしまう、表現。それを、梅津さんは「描画的他者」という言葉で表現し、重要視されています。また「描画的他者」が現れている作品には、ただ単にあるというような、存在感そのものというべきようなものを感じるといいます。そして、そのような存在感が現れている作品こそが、ある種の普遍性をもって、障害/健常を問わず、観る者の心に訴えかえるのではないか、と指摘されていました。

発表後のディスカッションは、坂倉先生が、3人にお互いの発表を聞いての感想をきくことからはじまりました。

会場からは「芸術活動をとおして障害のある人にポジティブ/あるいはネガティブな変化はもたらされたか。」「なぜ、今回取り上げたような活動に惹かれたのか」といった質問がされました。最初の質問に対しては田中さんがクレアムのスタッフの一人は「彼らは変化するのではなく、花開くだけなのよ」と語った、と答えられていたのが印象的でした。また、マイマジョの参加者には、精神的、身体的に様々な変化があったとのこと。その変化は、必ずしも歓迎されるものだけではなかったそうです。そのことに対し、別の参加者から、そういった変化はポジティブ/ネガティブととらえるのではなく、振幅の幅がひろがった、という視点から捉えるべきではないかという指摘がありました。ここでは字数の関係から詳しく書くことはできませんが、ほかにも、長津さんの発表における「毒」という考えや、「障害をどうとらえるか」ということをめぐり、議論がなされました。
 
3人の発表は取り上げた事例や内容は異なるものでしたが、「他なるものと出会う」ことを重視し、その違いを認識したうえで、そこに同じものを見出そうとしているという点では、同じと言えるのではないでしょうか。そしてまた、違いを担保しながら行われる「共同」の営みを丹念に見ていこうとする態度が、共通しているように思いました。

井尻貴子(「障害とアート研究会」コーディネーター、大阪大学大学院文学研究科 臨床哲学 博士前期課程)