障害とアート研究会 第4回:2008年11月12日(水)

「〈異なる身体〉の交感可能性―コンテンポラリー・ダンスを手がかりに」

話題提供者:渡邉あい子(立命館大学大学院一貫性博士課程)
会場:アートエリアB1(大阪市)
主催:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター、財団法人たんぽぽの家
共催:アートミーツケア学会、エイブル・アート・ジャパン


今回は立命館大学大学院一貫性博士課程在籍の渡邉あい子さんに「〈異なる身体〉の交感可能性―コンテンポラリー・ダンスを手がかりに」と題し、お話いただきました。渡邉さんは、7年間勤務されていた知的障害者施設での出来事―喧嘩ができない、一緒に机を運べない、ぶつかって転ぶなどといったこと―から、彼らは自分の身体の範囲を想定できていないのでは、と思い、「身体」に注目するようになったそうです。
また、その頃、周囲にコンテンポラリー・ダンスのワークショップに参加する人、関わる人が急速に増えたことも身体に関心をよせるきっかけになったとのことでした。
まず、赤ちゃんの共鳴動作を例に、身体を、分け隔てられたものであるけれど行動や動きがうつってしまうことがある「個別性と共同性が同時に絡み合ったもの」であると捉えるところから、話がはじまりました。
そして1980年代半ばに発生した「コンテンポラリー・ダンス」の成り立ちを追いながら、「観られる身体の変遷:欧米」の話へ。「特権的身体=クラシックバレエをイメージとした美しい身体」がやがて、既存の舞踊観への懐疑の態度を招き、コンテンポラリー・ダンスが生まれたことが報告されました。また日本で1958年ころから発生した、土方巽や大野一雄に代表される「舞踏」、なかでも土方の思想のなかの「衰弱体」が、考えるヒントとして提示されました。土方の言う衰弱体は、「自分でないようなものに棲みこまれてしまったような自分状態」。つまり、自分のなかの他者性との出会い。自分のままならなさを自分の中からひろいあげ、表に出していく舞踏は、「演ずる身体」ではなく「いまここの身体」の確認作業と捉えることができます。
続いて90年代からひろがりをみせはじめたダンスワークショップ(WS)について。従来のお稽古事とは異なり、WSでは、パフォーマンスが生まれてくるコミュニケーションが重視されます。渡邊さんによると、WS主催者は「異なる創造力をもった者同士がお互いを活かしながら共同で創作をすること」を理念としています。そのため「他者性を自分のなかに探す舞踏とは異なり、ここでは実際に異なる他者と出会い、共通の場を生成しあうことになる」そうです。
また、パフォーミング・アーツWSは「健常者による障害者のための」ものではない(not医学モデル)ので、障害のある人を「ケアする対象」としてみなすことはありません。ここで展開されるのは「ケア」ではなく「出会い」なのだ、と渡邉さんは主張します。
ひとりひとりが異なる身体をもった者として出会うとき、固定化された関係のなかで「あたりまえ」になっていたことがゆらぎ、新たな関係、世界が生まれることがあるのだと、お話を伺っていて思いました。


前半の発表が終わり、参加者皆でディスカッションを行いました。
参加者からは「誰かの身体が強度を持って現れてくるときとは何なのか。芸術/ダンスという言葉が持ち込まれたとき、そこは語られなくなってしまうのではないか」という指摘がありました。「ダンス」という言葉、あるいは定義を持ち込むことは、それについて複数の人が共通の認識を得ることを助ける一方で、そこで起こっていることを、「ダンス」という枠に閉じ込めてしまうこともあります。そして、その枠に入らないことを見落としてしまうことも。これは、私たちが「定義」や「概念」を扱うさいに、常に考慮しなければならない問題だと言えるでしょう。
また、「WSはWSで終わるのか。舞台化されないのか。」という質問に対しては、渡邊さんは「WSの中でのやりとり、その場が生まれていくことを重視しているので、舞台化にはこだわらない」とのこと。またほかの参加者から「舞台のあり方も、一様ではない。必ずしもステージにあがる必要はないのでは」という指摘があり、渡邉さん自身が参加しているという「めくるめく紙芝居」が事例として出されました。
ほかにも、WS運営のシステムや、障害と舞踏とのつながりに関する問いがでました。字数の関係からここですべてをとりあげることはできませんが、タイトルにある「交感可能な身体」をめぐっては、複数の参加者からも自身の体験が例として出され、議論されました。また、「交感可能な身体とはどのような意味か」という問いに対する「その人が交感と思ったら交感。渡邊さんの意のままにならない身体を持ちながらも、人に触れる、気配を感じること」だという答えからは、そのような、自分を自分として引き受け、味わいながら、他者と出会う、あるいは触れ合う瞬間を大切に思っていることが伝わってきました。
WSをいまここにある身体を晒すこととして捉え、自分の「いまここ」を確認する作業にこだわっているという渡邉さん。「いまここ」の確認は、「いまを生きている」という実感が得られにくいと言われる現代社会に生きる、私たちひとりひとりに必要なことのように思います。

井尻貴子(「障害とアート研究会」コーディネーター、大阪大学大学院文学研究科 臨床哲学 博士前期課程)