ムーブメントの背景

財団法人たんぽぽの家
理事長  播磨 靖夫

芸術の喜びを実感できない時代

 日本のアートシーンは、商業主義に支配され、大がかりな「見世物」と化している。その一方で“閉じこもり”現象が進み、一部の人たちの「専有物」と化している。今まで見たこともないものに出会えた“驚きと感動”が、今日の芸術からなくなっている。そのように感じているのは、私だけではあるまい。
 障害のある人たちの表現に初めて出会ったときの“驚きと感動”は今も鮮明に覚えている。それは上手・下手とかきれい・きたない、を超えた始原のエネルギーに満ちた表現であった。「美しいが、何かが過剰だ」という強烈な印象をもった。この“過剰”というのは“豊穣”という意味である。ただ美しいだけではない。その表現には「語りえぬもの」がひそんでいると感じたのだ。
 今から40年前、新聞記者をしていた私は、障害者キャンペーンと取り組んでいた。その当時の日本は高度経済成長期にあり、大量生産・大量消費の時代に突入していた。「心からモノへ」と価値観が変わり、自然破壊がいたるところで見られ、公害も多発していた。それでも日本人は豊かな社会をめざして真っしぐらに突き進んでいった。しかし、この経済成長の恩恵にあずからない人たちもいた。それが「障害者」といわれる人たちだった。
 障害のある人たちの表現と出会ったのは、ちょうどそのころである。福祉施設、養護学校、特殊学級の部屋の片隅でホコリをかぶったまま積み重ねられた作品群。そのなかに個性的でキラリと光る表現があった。それらが「私たちを見て」と叫んでいるように思えた。長年、誰かに発見されるのを待ちつづけていたにちがいない。その後、それらの作品を集め、障害児作品展を開いた。これが障害のある人たちの表現とかかわるきっかけであった。
 私に“驚きと感動”を与えた表現が、いずれ今を生きる同時代の表現として評価される日がくると予感をもった。それは大学時代に美術家、岡本太郎の『今日の芸術』(1954)を読んで感銘を受けていたからだ。そこには「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という、天と地がひっくり返るような芸術宣言が書かれていた。これが芸術の根本条件として、既成の美学を破壊した。そして、その後の日本の現代アートに大きな影響を与えたのである。
 ハイ・アート志向の強い日本で今、クオリティの高い洗練されたアートにたいして、美的価値が低いと見られていた「障害者アート」が、徐々にではあるが評価されだした。「知識と技術のアート」が主流だったのが、「直観のアート」(私たちは“魂の表現”と呼んでいる)も認めていこうと、美学の枠組みが広がりつつあるのだ。
 日本は芸術に関して世界でも有数の消費市場となっている。美術館、コンサートホールなど文化施設が次々と建設されている。地域の活性化の名のもとに芸術イベントも盛んである。社会に芸術的装い、芸術的言説が氾濫し、人びとの生活のなかに商品としての芸術がこれほど浸透した時代はないのではないか。
 けれども、今日ほど芸術を享受し、創造する感動を実感できない時代もない。今日の芸術のよそよそしさと虚ろさ。それらが芸術の力への信頼を失わせ、芸術の意味に疑念を生じさせている。


芸術の社会化・社会の芸術化

 今の日本社会は、モノはあふれているが、豊かとは感じられない。芸術はあふれているが、幸福とは感じられない。そもそも芸術は、生きていることは幸福でありたい、という感情にもとづく。この感情こそが芸術という人間の営みの本質でもある。
 人間を幸福にする芸術を復活させるには、生活実感と芸術をつなぐことが重要であると考えた。そこで芸術に生活を取り戻す試みをはじめた。そのキーワードは「芸術の社会化・社会の芸術化」である。このテーマは、19世紀末にアーツ・アンド・クラフツ運動をおこしたイギリスの工芸デザイン家、ウィリアム・モリス(1834-1896)が提唱した「芸術の生活化・生活の芸術化」による。
 世界で最初に産業革命を成しとげたイギリスは、大量生産・大量消費という物質文明を出現させた。産業による利潤追求と機械化は、質よりも量と価値を転換させ、人間の労働も「部品化」させた。その結果、品質は低下し、手仕事から生まれる生活のための美しい品々は失われていった。
 数と量を基準にした価値観のもとで開発が進み、自然破壊、大気汚染、都市の過密化、生活環境の悪化、田舎の過疎化、貧富の格差の拡大など社会矛盾が生じた。モリスはこれらの問題を見抜き、危惧し、行動をおこした。
 モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動をとおして、生命の質、生活の質、労働の質、人生の質を取り戻すことを目論んだ。それらはすべて人間が生を受け、生をまっとうする時間の質を回復させることでもあった。それはまた職業を問わず、階級を問わず、人間の尊厳と生活の喜びが守られる社会を実現させることだった。
 財団法人たんぽぽの家は個人の尊厳を重んじ、普遍的かつ個性豊かな文化の創造をめざす活動をしているが、1995年から「芸術の社会化・社会の芸術化」をはかる新しい市民芸術運動「ABLE ART MOVEMENT」を展開してきた。まず、私たちは芸術の概念の再定義からはじめた。芸術は一般に崇高なもの、むずかしいもの、近寄りがたいもの、特別の人がするもの、といったイメージが強い。そこで農民作家、宮沢賢治(1896-1933)の『農民芸術概論』をもとに次のように定義し直した。「芸術とは、個人または集団の、その取り巻く日常的状況をより深く美しいものに変革する行為である」。
 運動をはじめてのちにわかったことだが、ウィリアム・モリスと宮沢賢治は不思議なつながりがある。モリスの死んだ年に宮沢賢治が生まれているのである。「芸術と労働」にたいする考え方に共通するところも多い。たとえば、「芸術は人間の労働における悦びの表現である」、「芸術の回復は労働における悦びの回復でなければならない」(モリス)。「労働は本能である。労働は常に苦痛ではない。労働は常に創造である。創造は常に享楽である。人間を犠牲にして生産に仕(つか)ふるとき苦痛となる」(宮沢)。モリスと宮沢賢治は「労働の解放」を考えていた。人間の労働自体が自由で生命力にあふれたもの、誇り高いものになっていくことを願っていた。


可能性感覚とオルタナティブ

 私たちが立ち上げた「ABLE ART MOVEMENT」では、新しい視座で「障害者アート」を見直すことを手がけた。障害のある人たちのエネルギーに満ちた表現活動を、人間性を回復させる新しいアートとしてとらえ、そこにさまざまな可能性を見いだそうとした。そこで社会的に価値の低められたものを市民の力で高めること、具体的には、障害のある人たちの能力を高めると同時に、社会的イメージを高めることに取り組んだ。それはまた、障害のある人たちのアイデンティティを確立すること、サブカルチュアを形成することにもつながると考えたからだ。
 こうした考えの原点になったのは、障害のある人たちには生存・安全・教育といった生存権の保障は必要であるが、幸福追求権の保障も重要である、ということである。「生きる」ことを保障することは必要条件だが、それだけでは十分ではない。「文化的に生きる」ことを保障してこそ人間は幸福になれる。一人ひとりが生命を大事にしながら、自己実現をはかって幸福になっていく権利を何人にも保障するのが、今日の課題だと考えたのだ。
 ところで、ここでいう新しい視座というのは、「存在の謎」のことである。アートは世界のある種の秘密を明らかにする。宇宙、神、人間といった存在にかかわる秘密に、障害のある人たちの表現をとおして接近しようというものである。存在のサインは私たちの内面にも宇宙にもある。日常ではとらえることのできないサインを、アートで増幅してはっきりさせ、応答していこうというものである。そして、あるがままの神秘性とか、その深層部にあるものに近づき、そのことによって自分の存在をとらえ直し、自分のなかの意識をより自由に解放しようとするものである。
 私たちは「ABLE ART」を可能性の芸術と呼んでいるが、それは可能性感覚にもとづく芸術であるからだ。ノーベル文学賞作家、大江健三郎さんの息子、光さんは脳に障害があるが、幼いころから音に興味をもち、やがて作曲をするようになった。今ではクラシック音楽家によって演奏され、CDもだしている。大江さんは光さんの音楽を「魂が泣き叫ぶ声」と表現している。これは、私たちが知っている音楽とは別のより深い音楽を聴いているからである。この「別のより深い音楽」こそ、可能性感覚にもとづく芸術なのだ。それは、現にあるものを絶対視しない、むしろ未完のものとして見なすところから生まれる。別様でもありうるとする見方、改変可能とする考え方、それらはオルタナティブを提示するだけでなく、よりよい生の志向にもつながっていく。


関係性から生まれる新しいアート

 アメリカのスタンフォード大学で開かれたアーツ・イン・ヘルスケア学会で「ABLE ART MOVEMENT」について発表する機会があった。そのとき、コーディネーターをしてくれた心理学者から「ABLE ART」と仏教の関係についてたずねられた。それまでアウトサイダーアートやアールブリュットとの関係をたずねられたことはあったが、仏教との関係を聞かれたのは初めてだった。思いもかけない質問に驚く一方で、うれしい気持ちになった。「ABLE ART」のコンセプトのもとになった『農民芸術概論』は仏教思想の影響を受けているからだ。宮沢賢治は熱心な法華経の信者だった。仏教は「関係性の哲学」といわれるように、他者との関係のなかで生命は成り立っているという考え方が基本にある。人間の生命は、他者との関係のなかで他者から生命をもらうことによって、自己の生命を成り立たせている。
 人間の生命というのは、個体的なものではなく、他者との結び合いのなかで相互提供的なかたちで成立している。現代の私たちは人間の生命を、その生命活動を個体的にとらえがちだが、そのこと自体近代的な発想ではないだろうか。
 この人間の生命活動を一つの労働としてとらえてみた場合、他者がいるからこそ成り立っている生命活動に芸術がある。そう考えると、もう一度人間の労働とは何かを考えなければならない。資本主義の労働というものだけを見ていると、人間のあり方、働き方というものが見えなくなってしまう。もっと人間の労働というものを自由にとらえてもよいのではないか。モリスや宮沢賢治は「芸術と労働」について、こんなふうに提起しているように思う。
 このようなことを深く考えるきっかけとなったのは「アートリンク」というプロジェクトと出会ったからだ。2001年9月、アメリカのタオスで開かれたVSA(ベリー・スペシャル・アーツ)全米会議に招かれ、「ABLE ART MOVEMENT」の展開を発表した。同じセクションでフロリダのNPOクリエイティブ・クレイが「アートリンク」の活動を発表した。  私たちのアートセンターHANAでも、アーティストと障害のある人たちのコラボレーションと取り組んだことがあるだけに、その報告を大変興味深く聞いた。関係性から生まれる新しいアートのかたち、その面白さに共感を覚えた。クレイの人たちに来日して「アートリンク」の思想を広げてほしいと頼んだ。というのも、日本の「障害者アート」は自己表現の呪縛から抜けだせないでいるからだ。
 広く芸術と呼ばれる営みはすべて、内と外の循環活動──自己の内から発して世界と交流し再び自己へと回帰する活動である。しかし、自己表現を中心目的にしてしまうと、内から外へだけになってしまい、自己と世界を循環する表現の豊かな営みを分断し抑圧する。
 それがいかに内面の感覚や感情を純粋に表出したとしても、それを純化し目的追求すればするほど、作品の個性の喪失を促進するという逆説におちいってしまうのだ。自己表現の呪縛で類型的な表現の再生産によって個性を喪失する皮肉な現象がおきてしまうからだ。
 ところで、障害のある人たちの芸術の発達には段階がある。それは、自分のからだに隠れている表現能力を見いだして驚きのあまり自分の世界に没頭するところからはじまる。自分に没入することは芸術の基本的な要素でもある。それは“うぬぼれ”の意識をともなう。つまり、「私を見て!」という欲求は、やがて「私だけにあるものを、私にあるたぐい稀なるものを、他と私を区別するものを見てくれ!」と変化する。そこに表れる独自性、個性、かけがえのないものは、美的象徴の本質的な特色でもある。  「私を見て!」のあとにくるものは「あなたに見せたいものがある」という誘惑である。ナルシストは鏡を必要とするというが、芸術における最上の鏡は、鋭敏な他者の目である。自己愛からはじまった表現は、やがて人と人を結ぶ特別の絆をつくりだす。
 芸術は、たんに目を引くもの、たんに衝撃を与えるだけのものなら他者の目を長く引きつけることはできない。芸術作品としての魅力が必要である。それは何かしら意味をもつものといってもよい。その意味は、数字や記号のように限定したものではなく、どこかあいまいで謎めいていること、見る側も創造行為を共にすることができるような官能的な関係が生まれることが重要である。
 芸術は人間が自身の人間性をつちかう方法のひとつである。その方法で人間は感受性を発達させ、象徴という手段を用いて、他者と豊かな感情の絆を結ぶ。自己のもつ表現の可能性を愛することから、心の交流と豊かなコミュニケーションを経て、成熟の長い道のりをたどる。そのプロセスで、芸術は個人やコミュニティの直接的な要求を超えて、生命の新しいかたちとなっていく。それは世界に何かを贈与することである。


悲しみに向き合う「非情芸術」

 私たちの社会は今、大変生きにくい状況にある。グローバル化で文化の画一化が、ハイテク化で人間疎外が、市場化で競争原理が進行している。経済的格差、文化の劣化、貧困など社会のいたるところで矛盾が吹きだしている。希望が見いだせない閉塞感から、日本では毎年3万人を超える人が自殺している。そして、人間が冷たくなり、「誰でもよかった」という無差別殺人が続発している。
 このような生きにくい社会で芸術は何ができるのか。私たちはまず、他者への配慮を中核にした人間観、社会観を打ち立てることが重要であると考える。それにはつながりを回復させる芸術の力が必要である。岡本太郎は『芸術と青春』という本で、「芸術は個人に対してではなく、非情な社会に対して、さらに非情な世界に対して賭けるべきだ」と書いている。
 この言葉は今、大変重みをもちはじめている。かつて人間は「搾取の対象」といわれてきたが、人間は「排除の対象」になりつつあるからだ。このような非情な社会に、あるいは非情な世界にたいして芸術は向き合っていかなければならない。
 芸術のなかに「非情芸術」というものがある。この非情というのは、英語でいう「impersonal sorrow」である。非個人の悲しみに向き合う芸術が「非情芸術」である。それは人間だけでなく、生きとし生けるものすべての悲しみを自分たちのものとしてゆくこと、個人を超えた悲しみを共有することが今日の芸術に求められているのである。これはまさに宮沢賢治が『農民芸術概論』でうたった「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はない」につながる思想でもある。
 私たちは9年前から近畿2府4県を舞台に「ひと・アート・まち」というプロジェクトを展開している。これは「芸術の社会化・社会の芸術化」を具体化するプロジェクトで、2006年のメセナ大賞の「文化庁長官賞」を授賞した。そのなかでアートリンクと取り組んだことがあるが、2006年に滋賀で知的障害のある青年と彫刻家がペアを組んで制作し、作品を発表したときのことである。彼は施設をでて他人とコラボレーションするのは初めての体験だった。「ひと・アート・まち」のオープニング・セレモニーで、彼は新調のスーツ姿で現れたが、聞くところによると30代の人生のなかでスーツを着たのは妹の結婚式以来という。この日のために自分で稼いだお金でスーツを購入したのだという。まわりから祝福されている青年の誇らしげな表情。会場は芸術の至福にあふれていた。私たちは日常のなかに、このような祝祭がたびたびあることを願っている。それを実現するのが芸術の使命であると思っている。

『アートリンク・プロジェクト2009-関係のドローイング』(京畿文化財団)より